アイラブユー

 

春になると、ぽかぽかした陽気に誘われてどこかへ旅にでたくなる。

その年は友達と尾道〜直島あたりに行ってみようか、と計画していた。

尾道は写真や映画でみてずっと行ってみたかった場所。瀬戸内の島々を

巡るのもいいね、とその日を心待ちにして毎日を過ごしていた。

 

出発を10日ほど前にひかえたある日の午後、東日本大震災がおきた。

昨日までの生活がたった一瞬で変わってしまったことを受け止められなかった。

余震が続き、明日どうなるかわからない東京の状況にすっかり落ちこんだ

私は旅に行く気分になれず、やっぱりキャンセルしようかと友達に連絡した。

「行くよね?…行こうよ。」予想していなかった友達のその言葉に手を

引っぱられるようにして、複雑な気持ちを抱えたまま予定どうり新幹線で

瀬戸内へと向かったのだった。

 

初めて訪れた尾道は晴れて暖かかった。

駅の改札をでると小高い山の上にちょこんとお城がみえる。果物屋さんの

店先ではあまなつ、みかん、はっさくなどいろいろな種類の柑橘がかごに

盛られていた。どこからかボーッと船の汽笛がきこえてくる。

坂の町とは聞いていたけど、展望台への階段が想像以上に急で着ていた

スプリングコートを脱ぎ、うっすら汗をかくほどだった。坂の途中でご近所

さんと立ち話するおばあちゃん、猫は気持ちよさそうに日向ぼっこしてる。

日当たりのいい場所にある木はもうピンクの花をつけている、桜だろうか?

観光客でにぎわう高台から見た先には、のんびりした瀬戸内海の風景があった。

 

フェリーで直島に渡って「I♡湯」へ。

アーティストの大竹伸朗がつくったふしぎな銭湯で、男湯と女湯をしきる壁の

上に巨大なぞうがいたり、なぜかサボテンがぎっしり飾ってある。

美術作品だけど実際に入浴することができて、地元の人もふらりとやってくる。

湯上りに港にある売店で香川名物の讃岐うどんを食べて、お土産を買った。

震災とまったく関係ないわけではないけれど、ここにはここの暮らしがある。

東京にもどって、明日から自分にできることをひとつずつゆっくりとやろう。

少し時間はかかるかもしれないけど、きっとまた穏やかな日々が戻ってくるはず。

ピンと張りつめていた気持ちが、瀬戸内のやさしい空気にほっとゆるんだ。

 

あのまま東京にいたら、この春の暖かさは感じられなかったと思う。

迷ったけれど来てよかった。2011年3月、忘れられない旅だった。

 

 

 

しあわせな150円

 

温泉地で生まれ育ったせいか、ほかの温泉地を訪れるとつい偵察という気分

になりがちだ。お湯の匂いをチェックして、お土産屋さんの店内をぐるっと

ひとまわり、町になじんでいる感じのいい喫茶店はあるかしら、と探す。

どれもそこだけ時が止まっているような、かぎりなく昭和的なものが好み。

今回は「信州の鎌倉」と言われる別所温泉へ偵察に…旅に行ってきた。

 

田んぼの間をのんびり走るローカル線の終点、別所温泉駅はミントグリーン

と白の配色がアイスクリームみたいな、こぢんまりした木造の洋風建築。

何度か塗り直されたようだけど、昭和初期に建てられた姿のままだそう。

改札では女性職員さんが大正ロマンよろしく華やかな袴姿で出迎えてくれる。

 

町を散策してから、さっぱりしようと3つある外湯のうち大師湯へと向かった。

券売機で150円の入浴券を買い、番台に座っているご婦人に渡すと入り方の

マナーを教えられた。これは間違った入り方をしたら怒られそうな雰囲気だ。

暑いと地元の人は家のシャワーで済ませるそうで、湯船は貸し切りだった。

ちょっと熱めのお湯だけどえいっと入ってしまえば、はぁ〜と思わず声がでる。

硫黄のにおいもきつくないし、なんだかまろやかな感じがする。

肩までつかるとあちこち歩いた旅の疲れが、やわらかいお湯にとけた。

 

「いいお湯でした〜」と番台のご婦人に声をかけると、ふっとほっぺたがゆるんで

「そうでしょう、外湯は他にもあるけど私にはここのお湯が1番。もう50年以上

入ってるんだよ。お肌つるっつるになるんだから!」とうれしそうに教えてくれた。

きっと地元の人の自慢の温泉なんだろうな。

 

ぶらっと訪れた旅先で温泉につかり、その土地を身体いっぱいで感じる。

こんなに贅沢でしあわせな150円の使い方、ほかには思いつかない。

 

 

 

 

 

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